安土桃山時代における大阪城の役割とは

大阪城と言われると、誰のお城だと考えるでしょうか。

言うまでもなく、豊臣秀吉ですね。

しかし豊臣秀吉の居城と言えば京都の桃山にあった伏見城では?と思う人もいるかもしれません。

それならば、安土桃山時代における大阪城とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

ここでは安土桃山時代における大阪城について解説します。

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1583年に工事開始

大阪城が建っている場所は、もともと浄土真宗の本山として知られていた大阪本願寺の跡地でした。

1583年、そこに豊臣秀吉が大阪城を建築し始めます。

織田信長の居城であった安土城をモデルにして建て始めたと言われていますが、実際はその上を行くようなお城を目指していました。

そして1年半後、大阪城が完成したのです。

当時はまだまだ織田信長が政権を握っており、豊臣秀吉は不安定な立場にいましたので、その力を見せつけるために天守閣を早く作ろうとしていたと言われています。

日本一のお城

この時代において、大阪城は一番外の城郭を指す惣構えを含めると420万平方メートルもの面積を誇り、それは今の大阪城公園の約4倍にあたる大きさでした。

その面積は他のお城を圧倒するほどであり、同時に4重の壁に囲まれた日本一のお城となったのです。

豊臣秀吉が死去した後は、その遺言に従って豊臣秀吉の息子の秀頼、そしてその母の淀が城主となり、大阪城で生活することになりました。

大阪城の落城

1600年、力を付けてきた徳川家康と石田三成が衝突し、関ケ原の戦いが起こりました。

これによって徳川家康が政権を握るようになったのです。

1615年には大坂夏の陣が起こり、これによって大阪城は事実上落城しました。

廃墟同然となった大阪城は、今度は2代目将軍である徳川秀忠によって修築されていきます。

特に関西で有名な大名に依頼し改築させたこの大阪城は、技法や石垣の大きさを誇る、その時代にまた日本一とも言えるようなお城に生まれ変わったのです。

石垣はより高くなり、堀はより深くなりました。

そして3代目将軍の徳川家光の時代に完成したのです。

しかしこの時に完成した天守閣は落雷によって1665年に焼失してしまいました。

そして昭和の復興が起こるまで、大阪城は天守がない状態だったのです。

まとめ

いかがでしょうか。

大阪城は、豊臣秀吉の力を見せつけるためのお城であり、その時代で一番とも言われたきらびやかなお城となりました。

しかし残念ながら、その豪華さは江戸時代への移り変わりの際に消え失せてしまいます。

1868年には幕臣の行動のために大阪城内が燃えてしまい、多くが失われてしまったのです。

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