安土桃山時代に活躍した長谷川等伯という人物を知っているでしょうか。
彼は安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師であり、狩野永徳らとともに桃山文化を代表する人物です。
20代の頃からは日蓮宗関連の仏画などを描いていましたが、上洛してから狩野派など様々な会を学び、様々な作品を仕上げたのです。
長谷川等伯とは一体どのような人物だったのでしょうか。
ここでは、佐々木等伯について解説します。
年齢を感じさせない佐々木等伯の作品
佐々木等伯というのは、豊臣秀吉や千利休に重宝された画家であり、桃山時代を代表する人物の1人です。
現代でも佐々木等伯の作品による展示会などが行われており、等伯自身が還暦を過ぎて描いた作品も、その年齢を感じさせない力強さが評価されています。
能登から出て力を付けた佐々木等伯は豊臣秀吉のみならず、最後は徳川家康に呼ばれ江戸に向かいました。
ですから還暦を過ぎてそれなりに歳をとったとしても政策に関する意欲は衰えなかったのではないかと考えられているのです。
特に「南泉斬猫図」における猫を今にも殺そうとしている僧侶の表情は迫力に満ちているとして高く評価を受けています。
もともとは仏画を作成
もともとは日蓮宗の熱心な信者として育った佐々木等伯は、現在の石川県に置いて日蓮宗に関する仏画を手がけていたと言われています。
佐々木等伯と言えばなんとなくダイナミックな作品を連想する人もいるでしょうが、特に初期の頃の仏川非常に繊細なタッチが見え、その細かな技術が高く評価されてきました。
今でも能登地方の人などには長谷川等伯の作品が掲げられている場合があります。鮮やかな色使いも特徴的ですが、染物屋で育ったことによりそのような色使いの感覚というものが養われたのかもしれません。
51歳以降に大活躍
長谷川等伯は若い頃から様々な作品を作り上げてきますが、特に京都に行ってから、大体51歳を超えたあたりでさらなる才覚を表すようになります。
京都における有名な人で作品を作り上げ、長谷川等伯の名前が広がっていくようになりました。
同時期に、知名度ではトップを誇っており、長谷川等伯のライバルでもあった狩野永徳が休止したことにより、長谷川等伯には大きなチャンスが巡ってきたのです。
しかし、同じように絵画に才能持ち、長谷川等伯の後継者とも言われた嫡男がなくなったことにより、等伯は大きなショックを受けました。
もしもこの嫡男が長谷川等伯の後継者となっていたら、さらなる大作がこのように残っていたかもしれませんね。
まとめ
いかがでしょうか。
桃山時代の代表者と言えば長谷川等伯と言えるほど、長谷川等伯は海外においては有名です。
歴史の授業などでは狩野永徳などが出てくることが多いですが、もしも長谷川等伯の絵画展などが行われていたら、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。