安土桃山時代と言えば、織田信長や豊臣秀吉が政権を握った時代ですよね。
この時期は鉄砲が伝来し、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教をもたらしました。
ザビエルは鹿児島県にやってきましたから、まず九州にキリスト教が広まり、織田信長の時代には100,000人から150,000人のキリスト教徒がいたと考えられています。
そして、大名の中にもキリスト教になるものが出て、キリシタン大名が誕生しました。
キリシタン大名とは一体どのようなものだったのでしょうか。
ここでは、キリシタン大名について解説します。
少年使節の派遣
キリシタン大名の中でも特に熱心な信者であった大友、有馬、大村の3人は、ローマに少年使節を派遣しました。
イタリア人、バリニアノが宣教の方法を伝えるために日本に来ており、彼らが計画したものでもあります。
ヨーロッパの進歩したキリスト教国を日本人に見せ、同時にヨーロッパの人々にも日本人を見せ、日本は価値がある国であるということを理解させようとしたのです。
そこで、感性豊かな少年たちが選ばれました。
伊東マンショ、千々岩ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンが選ばれ、彼らはマカオを経由しながらインドにたどり着いたのです。
ローマに到着
彼らはインドから喜望峰回り、ポルトガルの首都リスボンにたどり着きました。
あちこちで日本の少年たちとして歓迎を受けながら、ローマ法王であるグレゴリオ13世に出会ったのです。
ローマ法王は涙を浮かべて日本人の少年たちを受け入れたと言われています。
その後彼らはインドを経由し、長崎に帰りました。
ヨーロッパで学んできたことを日本で生かそうとしたにもかかわらず、出発してから8年後に日本に帰ってきたときには豊臣秀吉によってキリスト教が禁止されており、彼らは活動することができなかったのです。
最初に派遣された4人のうち、中浦ジュリアンはなかなかキリスト教を捨てず、強く信仰を持ち続けたことにより、最終的に火あぶりにされました。
豊臣秀吉によるキリスト教の禁止
豊臣秀吉は、キリスト教徒たちが反乱を起こしたり、仏教や神道が迫害されてしまうことを恐れ、キリスト教を禁止したのです。
まず最初にバテレン追放令を出し、宣教師たちを追放しようとしました。
バテレンというのはポルトガルで神父を表します。
もともとは織田信長と同じようにキリスト教を受け入れていましたが、九州を制圧した際、信長は長崎がイエズス会の領土として扱われていることに驚き、キリスト教に脅威を感じたことがきっかけであったと言われています。
また、日本人がポルトガル人により奴隷として扱われることを防ぐという意味もあり、キリスト教が禁止されたのです。
まとめ
いかがでしょうか。
キリシタン大名たちはその信仰を守り、キリスト教を広げるために色々と努力をしていました。
しかし、豊臣秀吉がキリスト教を禁止してしまったことにより、ローマで学んだことは活かされることなく終わってしまいます。
それでも、信仰を守った大名たちがいたことにより、キリスト教は現代まで続くことになるのです。