安土桃山時代には美術や茶道が栄えました。
しかし、それらは一体どのように取り込まれ、栄えていたのでしょうか。
安土桃山時代に栄えた文化は桃山文化と呼ばれました。
これは豊臣秀吉が居城である伏見城を京都の桃山という地域に気づいたことに基づきます。
それならば、この桃山文化において美術と茶道はどのように栄えていったのでしょうか。
ここでは安土桃山時代の美術と茶道がどのように栄えたかということについて解説します。
桃山美術について
安土桃山時代に栄えた美術は桃山美術とも呼ばれています。
1568年から1603年までの美術を指すことが多く、非常に短い時代ではありますが庶民たちが力を持ち始めた時代として注目されています。
美術としては絵画が有名ですが、城郭や書院造、金碧障屏画なども徐々に栄えていくようになりました。
絵画としては狩野永徳や長谷川等伯らが有名ですし、ザビエルが来日したことによって宗教絵画というものも日本で描かれるようになりました。
南蛮貿易によって南蛮文化が日本に入ってきたことにより、ヨーロッパの絵画や工芸品なども日本に入ってきたのです。
城郭建築について
安土桃山時代と言えば、城郭建築が特徴的です。
もともとは山の上にお城を築くという方法が一般的でしたが、この頃には小高い丘や大地の上にお城を築き、石垣で囲んで天守閣を作るという形が一般的になりました。
また、この時代に初めて天守閣という言葉が記録にも出てくるようになるのです。
織田信長が建築した安土城は城郭建築に革命をもたらしたとも言えるでしょう。
また、豊臣秀吉は安土城の上回るお城を建てようとしましたし、この時代に建築された姫路城は世界遺産となっています。
犬山城は国宝としても知られていますね。
茶道について
安土桃山時代の茶道について知る場合、千利休の存在は欠かすことができません。
千利休は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した茶人です。
歴史の授業でも学ぶ人ですね。
もともとは商人として活躍しましたが、60歳を過ぎてから茶道を生み出しました。
千利休が出てくるまでは、お茶の文化というものはわびさびではなく、華やかで豪華なものでした。
しかし千利休が日本のシンプルなデザインを重視したことにより、茶室も豪華なものから質素なものに変わりました。
そして日本の四季を重視した自然を尊重する茶道というものが栄えていったのです。
まとめ
いかがでしょうか。
安土桃山時代における桃山文化は、美術や茶道というものが大きく変化した時代でした。
むしろ、今伝わっている美術や茶道というものはこの時代に原型ができたものといっても過言では無いのです。