安土桃山時代の僧侶の特徴について

安土桃山時代とは、織田信長と豊臣秀吉が政権を握った時代として知られています。

織田信長の居城であった安土城と豊臣秀吉の居城であった伏見城があった桃山丘陵から、安土桃山時代と言う名前が付けられました。

そんな安土桃山時代では、特に織田信長の下で浄土宗と法華宗の宗論が有名ですよね。

浄土宗の僧侶と法華宗の僧侶が宗論を行ったというものです。

ここでは、織田信長の下で行われた宗論について解説します。

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宗論の発端

1579年、浄土宗の僧侶が安土町で説法をしており、そこに法華宗の商人、大脇伝介が議論をしようと持ち掛けたことがきっかけとなりました。

もともと1週間で宗論をする予定が、浄土宗の僧侶は11日間に延期し、使者を出したのです。

法華宗にも歴代の僧侶たちが集まり、議論の準備が整っていました。

そしてその騒ぎが大きくなり、織田信長も耳にすることとなったのです。

織田信長は、織田家の家臣にも法華宗の信徒が多いという事を理由に信長の考えで斡旋するとそれぞれの僧侶たちに伝えました。

しかし浄土宗側は信長に従うと述べたものの、法華宗は負けるわけがないだろうと盛り上がってしまい、宗論に発展してしまったのです。

宗論の開始

単なる議論が宗論に発展してしまったため、信長は「審判を派遣するから、経過を報告するように」と申しつけました。

そして日野の臨済宗南禅寺の長老を審判に招き、安土にある浄土宗の寺、浄厳院にて宗論を行いました。

法華宗側が敗北し、僧侶たちは逃亡を図りましたが、信長の家臣たちによって捕えられたのです。

信長は自ら浄厳院に出向き、双方の当事者を賞賛しました。

そして、当初浄土宗に議論を吹っかけた大脇伝介を京都、安土内外に騒動を巻き起こした不届き者ということで斬首したのです。

法華宗の者たちへの対応

法華宗の僧侶たちには、信長は厳しい処罰を行いました。

武士たちは軍役のために日々努力をしている一方で僧侶たちはぜいたくな暮らしをしており、それにもかかわらず宗論に勝てなかったということは許しがたいという考えでした。

そこで、宗門を変更して浄土宗となるか、今後は二度と他の宗教を誹謗しない誓約書を書かせたのです。

法華宗が負けたことは安土町でも話題となり、世の笑い者となったのです。

まとめ

いかがでしょうか。

僧侶と言えば、どの時代においても重要な役職の人々ですが、織田信長の時代にこのような宗論が繰り広げられ、また、負けたことにより法華宗の僧侶たちが笑い者にされていたなんて、おもしろいですよね。

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