安土桃山時代と言えば、織田信長や豊臣秀吉が台頭した時代として知られていますよね。
しかし、なぜ安土桃山時代というのでしょうか。
歴史を勉強した時、室町時代や鎌倉時代などという四字熟語に比べて安土桃山時代なんて名前が長い、と感じたことがある人もいるかもしれません。
また、安土と言えば織田信長の安土城を思い浮かべる人も多いでしょう。
それならば桃山とは一体なんなのでしょうか。
ここでは、安土桃山時代における桃山とはどのような意味があるのか、ということについて解説します。
伏見城があった場所
安土というのはいうまでもなく、織田信長の居城であった安土城のことです。
それに対し、桃山というのは豊臣秀吉の居城であった伏見城が位置していた場所、桃山丘陵からきています。
桃山丘陵とは京都市伏見区の中央にある丘陵で、かつては多くの大名の屋敷が集まり、一大政治都市として栄えた場所でもありました。
伏見城が建てられる前には桓武天皇のお墓があったとも考えられています。
元禄時代ごろまでは桃の木がたくさん植えられていたことにより、桃山と呼ばれるようになりました。
名前に対する反発
桃山とは伏見城があった場所を指すわけですが、安土桃山時代という名前には批判もあります。
まず、安土城は完成から3年後に焼失しましたし、伏見城が立ったあと2年後に豊臣秀吉は命を落としました。
そのために、これらのお城は織田信長や豊臣秀吉を象徴するお城では無いのです。
だからこそ、最近では安土桃山時代のことを織豊時代と呼ぶことがあります。
また、安土伏見時代、安土大阪時代、天正時代、大阪時代、などという呼び方を提案する研究者もいます。
しかし、確かに豊臣秀吉は大阪城に住んでいたというイメージが強いですが、実際は関白になった後、朝廷に出向くために京都に住んでいた時期が長いため、大阪というものを時代の名前に出るのもいかがなものかという見解があります。
桃山文化について
特に豊臣秀吉が天下統一を行い、全国支配を行った後の時代を桃山時代と呼び、この時の文化を桃山文化ということがあります。
桃山文化は時代を桃山時代と呼び、この時の文化を桃山文化ということがあります。
桃山文化は天下が統一された後の時代の事ですから、比較的平和な世の中が訪れ、新興大名や豪商が出現し、海外との交易も盛んに行われました。
そのため、きらびやかな文化が花開いたと考えられています。
さらに桃山文化という名称は美術史において使われることが多いです。
まとめ
いかがでしょうか。
安土が安土城から来るからといっても、桃山城があったわけではありません。
しかし、桃の木がたくさん植えられていたから桃山だなんて、なんとなくきれいな名称ですよね。