安土桃山時代の幕府と大名の関係について

安土桃山時代と言えば、いうまでもなく織田信長や豊臣秀吉で知られる時代です。

日本の歴史の中では幕府や大名という言葉がたくさん出てきますが、安土桃山時代における幕府と大名は一体どのようなものだったのでしょうか。

ここでは、安土桃山時代の幕府の大名の関係について紹介します。

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織田信長による政権獲得

1568年、織田信長は今川義元を桶狭間の戦いで破り、岐阜県の実を支配下に置きます。

そして足利義昭を第15代室町幕府の将軍に立て、自らは後見人として政権を握りました。

しかし、信長にコントロールされる自分の立場に不満を持った義昭が独自に行動し始めたことにより、信長はこの義昭の行動を制限するようになります。

そして姉川の戦いなどを経て、敵対関係になっていきました。

最終的に武田信玄の軍を破り、信長は義昭を追放したため、室町幕府は消滅します。

その後、織田政権が確立しました。室町幕府が倒れた後はどうしても新しいバックができそうな気がしますが、織田信長は幕府を作ったわけでは無いのです。

織田信長が大名を支配下に置いた

事実上、室町幕府を消滅させた織田信長は諸大名を支配下に置くようになりました。

大名たちは各地域を束ねていましたから、彼らを支配下に置くという事はそれらの地域を支配下に置いたということになるのです。

織田信長が力をつけ始めた頃は、まだ今でいう東海3県あたりのみを支配していたのですが、信長は徐々に政権を拡大させるようになりました。

奥州の諸大名も信長に様々なものを献上していましたから、事実上は信長の政権は全国規模であったと考えられます。

豊臣秀吉とは

豊臣秀吉というのは、もともと羽柴秀吉として力を伸ばして頂名でした。

つまり大名という事は、彼は織田信長に仕えていたということです。

率先して様々な役職を引き受けて大きな成果を上げ、織田家の中で徐々に力をつけていくようになりました。

有名な話では、信長の草履取りを勤めた際に信長の草履を懐に入れて温めていたとされ、信長は秀吉に高い評価を与えたとされています。

そんな豊臣秀吉は28年、伏見城で亡くなりました。

その後は徳川家康が力をつけ、1600年に関ヶ原の戦いで勝利を収めた後、1603年に江戸幕府を開きます。

まとめ

いかがでしょうか。

織田信長と豊臣秀吉が政権を握った安土桃山時代には幕府というものはありませんでした。

豊臣秀吉は織田信長に支えた大名であり、その豊臣秀吉が最終的に、天下を統一したのです。

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