安土桃山時代は織田信長と豊臣秀吉の政治が有名ですが、それ以外にも南蛮貿易という形で日本がポルトガルやスペインとやりとりをしたということでも有名です。
日本は鎖国中もポルトガルとは交易をしており、ポルトガルとは深いつながりがありますよね。
それでは、安土桃山時代はポルトガルとどのような関係を持っていたのでしょうか。
ここでは安土桃山時代における日本とポルトガルについて解説します。
ポルトガルと交易することになったきっかけ
大航海時代、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到着し、彼の出身地であるポルトガルは、アジア貿易を開始するようになったのです。
もともとアジアの品々をヨーロッパに運び、東南アジアや東アジアでも中継を行っていました。
それによって南蛮貿易は中国とポルトガルを中心として行われるようになり、そこに日本も加わっていたのです。
南蛮貿易においては日本の銀と中国の生糸や織物が重要な商品となりました。
日本の銀はポルトガルでも重視されるようになり、それを用いて日本と中国と中継貿易を行ったのです。
琉球王国から拒否
もともとポルトガルが日本にやってくる前、ポルトガルは琉球王国に到着していました。
琉球王国と交易しようとしたものの、彼らはポルトガルがマラッカを支配していたことを知っていたため、ポルトガルとの交易を拒否したのです。
そのため、彼らは琉球王国と交易することができませんでした。
その後、フランシスコザビエルが薩摩の国に到着し、キリスト教を布教し始めます。
それによってイエズス会は長崎をイエズス会領とし、これが後に豊臣秀吉にキリスト教警戒させるきっかけとなりました。
もともとポルトガルの商人とイエズス会は協力関係にあったのです。
ポルトガルの言葉
ポルトガル人と古くから交易をしてきたことにより、日本にもポルトガル語がたくさん入ってくるようになりました。
例えばカルタや金平糖など、日本語の中にはポルトガルから来た表現がたくさんあります。
この時代に有名な鉄砲やキリスト教はポルトガルからやってきました。
先ほど述べた通り、日本が鎖国をした時も長崎の出島でポルトガルとだけは交易をしていましたから、ポルトガルは日本に大きな影響を与えた国と言えるのです。
なお、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、宣教師たちを追い出そうとした後も、フランシスコザビエルらは日本にとどまったと言われています。
まとめ
いかがでしょうか。
日本とポルトガルはこのように昔から交易関係にあり、ポルトガルは日本に大きな影響を与えた国だと言えるのです。
今でこそ、日本にポルトガルが影響を与えていたなどとはなかなか想像がしにくいですが、その証拠として日本語の中にポルトガル語がたくさん残っているのです。