安土桃山時代に活躍した軍師とは一体誰のことを指すのでしょうか。
軍師と言えば黒田官兵衛を思い浮かべる人も多いかもしれませんね。
黒田官兵衛というのは戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した軍師であり、本名は黒田孝高といいます。キリシタン大名としても知られています。
それならば、軍師である黒田官兵衛は安土桃山時代に一体何をしたのでしょうか。
ここでは安土桃山時代における君子、黒田官兵衛の活躍について解説します。
軍師とは
そもそも軍師というのはどういう意味なのでしょうか。
軍師とは軍の中において、その軍を指揮する君主や将軍の戦略指揮を補助するもののことを指します。
このような役割は東アジアにおいては古代から存在していたと考えられていますが、ヨーロッパでは極めて最近のものと言えるでしょう。
策士と言われることもあります。
日本においては今川義元の軍師、武田信玄の軍師、上杉謙信の軍師など様々な軍師がおり、ここで紹介する黒田官兵衛というのは豊臣秀吉の軍師に当たります。
黒田官兵衛とは
本名は黒田孝高ですが一般には黒田官兵衛として知られています。
この群衆は1546年12月22日に誕生しました。
17歳の時に初めて戦いに行きますが、これまでの軍師は連歌や和歌などを好んで学んでおり、戦いよりもむしろこちらに興味を持っていたと言われています。
しかし、僧侶が「今は戦いの時代だから、武術を収めるべきだ」と勧めたために戦いのための技術を身に付けようとしたのです。
しかし、戦いが終わって落ち着いた後は連歌を再開しました。
当時としてはトップクラスの力があり、センスと教養があったと言われています。
秀吉のもとでの軍師
1580年、三木城を陥落させた官兵衛は、1581年には鳥取城に出兵したのです。
1582年には備中高松城を攻略しようとしましたが、その方法はなかなか凄惨でした。
フィクションの物語などでは兵糧攻めや水攻めをしたことにより、「節で直接相手を殺害するわけでは無いから黒田官兵衛は優しい」という解釈がありますが、決してそのような事は無いのです。
三木の干し殺し、鳥取の渇え殺し、と言われるほどのものであり、とにかく相手をさせようとしました。
特に鳥取は徹底したやり方をして高値で米を買い占めたと言われています。
まとめ
いかがでしょうか。
軍師と言えば黒田官兵衛が有名ですよね。
そんな黒田官兵衛は自らの知識を使い、豊臣秀吉のために働きました。
そんな彼は大河ドラマにもなっていますから、フィクションとして知っている人も多いのではないでしょうか。