安土桃山時代の石高とはどのようなものか

安土桃山時代というと、織田信長や豊臣秀吉を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

織田信長といえば長篠の戦いや本能寺の変、豊臣秀吉といえば太閤検地や刀狩りを思い浮かべる人もいるかもしれませんね。

石高という言葉を知っているでしょうか。

太閤検地が行われたことにより、この時代は土地の価値を測るために石高制度を用いました。

面積に石盛(こくもり)という係数をかけ、米の生産力を表現したものです。

ここでは、石高について解説します。

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太閤検地とは

石高について述べる前に、まず太閤検地について解説しましょう。

豊臣秀吉がまだ豊臣姓を名乗る前、つまり羽柴秀吉の時に行った文禄の検地のことです。

領主が自分の支配する領土に課税する時、その土地がどのくらいの力を持つのか調べることはとても大切でしたが、その一方で抵抗されることもあり、とても難しいことでもありました。

検地そのものは昔から行われていたのですが、羽柴秀吉が本格化したのです。

石高とは

土地の生産力を表したものを石高といい、この制度を石高制と呼びます。

米の生産力を表す時のみならず、農産物や海産物の生産力を表す時も使われた単位でした。

大人一人が一年に食べる米の量に相当する量を一石と言います。

このように換算することで兵士にどれくらい報酬を与えなければならないのかということも計算しやしくなるため、どれだけの兵士を養えるのかということも計算しやすくなるのです。

石高が多かった人物とは

よく大河ドラマなどでも「100万石の大名」などと言われますよね。

それならば、石高が多かった大名は一体誰だったのでしょうか。

1598年時点では、断トツ1位は徳川家康の255万石でした。

2位は毛利輝元で120万石、そして上杉景勝も同じく120万石です。

100万石を超えた大名はこの3人だけで、彼ら以外は100万石を下回ります。

前田利家は83万石、伊達政宗は59万石、と減っていきます。

徳川家康がどれだけ力を持っていたのかと言うことが分かりますね。

まとめ

いかがでしょうか。

歴史の授業では太閤検地という言葉が重視されるため、石高制という言葉は知っていても「それ何?」と思っていた人が多いかもしれません。

石高というのは米の生産量を表す単位であり、生産量のみならず報酬などにも使われた単位でした。

そして、東川家康が断トツの石高を有しており、石高だけ見てもこの時代に徐々に力を伸ばしていった人物であるということが分かるのです。

また、100万石を超える大名は3人しかいませんでした。

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