安土桃山時代と聞くと、織田信長や豊臣秀吉といった名前を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
織田信長の本能寺の変や豊臣秀吉の天下統一は有名ですよね。
歴史の授業で、豊臣秀吉の太閤検地について勉強したという記憶がある人も多いことでしょう。
しかし、太閤検地とは一体どのようなものだったのでしょうか。
ここでは豊臣秀吉が行った太閤検地について解説します。
太閤検地とは
太閤検地というのは、その領土の米の生産力を表すために行われたものといえます。
実は、検地は豊臣秀吉のみが行ったものではなく、織田信長も実施していました。
農民たちは領主に直接年貢を納めるわけではなく、村として団体で領主に年貢を納めていたのです。
しかし、このままだと1つの村が複数の業種に年貢を納めなければならなかったり、権利関係が存在してしまうため、太閤検地では1つの土地に1人の納税者、というシステムを導入しようとしたのです。
ただし、実際には依然として様々な権利関係が存在しており、理想のようにはいかなかったとも言われています。
太閤検地の基準
太閤検地をする場合、結果というものは石高で表されました。
米の生産力を表す単位のことです。
そして6尺3寸が1間、1間四方が1歩、30歩が1畝わ10畝が1反、10反が1町と基準が設けられたのです。
田畑というものは上、中、下、下々と階級が分けられました。
これによって日本全国において、土地をどのように表現するかという基準が統一され、どこにどのような土地があるのかということがわかりやすくなったのです。
ただし、太閤検地は1582年から行われたと言われていますが、この基準で行われたのは1589年が最初であると考えられています。
死角数字の信憑性について
実際に数字で土地の面積を表すとなると、やはりその数字がどれだけ正確であるかということが重要になります。
安土桃山時代の前までは、村が土地の大きさを自己申告するというスタイルが一般的でしたが、豊臣秀吉の太閤検地では実際に計測が行われました。
そういう意味では、数字は極めて正確だっただろうと考えられています。
しかし、だからといって全国の土地が計測されたわけではありません。
例えば、越後の上杉氏の領地は計測されなかったとも言われています。
そのため、数字がどの程度正確かという事はなかなかはっきりとは言えない側面があるのです。
まとめ
いかがでしょうか。
よく大河ドラマなどでも「百万石の大名」などという言い方をしますよね。
実際にそれほどの土地を持っていた大名のトップは徳川家康でした。
徳川家康がいかに力をつけ始めていたかということがわかります。