安土桃山時代の京都はどのような価値があったのか

安土桃山時代において、京都はどのような価値がある土地だったのでしょうか。

京都といえば、日本人にとっては誰もが訪れたことのある場所ですよね。

「京の都」とも言われ、風情がある街です。

それならば、安土桃山時代は京都はどのような街だったのでしょうか。

ここでは安土桃山時代における京都の価値について紹介します。

スポンサーリンク
azuchimomoyamaレクタングル大

織田信長の時代

織田信長は、室町幕府最後の将軍、足利義昭を将軍職に建てた人物でした。

もともとは尾張の出身でしたが、1573年になり、武田信玄が野田城を攻略したことから室町幕府の将軍足利義昭が信長に挙兵し、信長は尾張から京都に進軍しました。

最終的に義昭を追放して室町幕府を滅ぼした信長に多くの大名が付き、京都でまとまっていったのです。

しかし、織田信長が自害した場所として有名な京都の本能寺において明智光秀が裏切り、織田信長の時代は終わりました。

豊臣秀吉の時代

豊臣秀吉は山崎の戦で信長を裏切った明智光秀を倒し、京都の支配権を掌握しました。

これにより、京都は豊臣秀吉の視界化に置かれたのです。

安土桃山時代の名称は織田信長の居城である安土城、そして豊臣秀吉の居城である伏見城があった桃山丘陵から取られましたが、豊臣秀吉といえば大阪城でも有名ですよね。

そのため、安土桃山時代といっても本当は安土大阪時代の方が良いのではないのか等という考え方もあります。

しかし、基本的には朝廷に出入りするために豊臣秀吉は京都にいたため、そういう意味でも安土桃山時代の京都は重要な土地だったということが分かります。

政治の中心地

もともと戦国時代の最初に起こった応仁の乱により、京都の北部が消失してしまい、荒廃した土地になってしまいました。

しかしその後、都市がしっかり作られるようになり、内外がはっきりした街になったのです。

織田信長と豊臣秀吉の力によって復興した後も京都の内側と外側の線引きが明らかになりました。

豊臣秀吉が伏見に隠居し、伏見が政治の中心地となったのです。

このように、京都はもともと政治には無関係な場所でしたが、徐々に政治の力を握る場所になっていったのです。

まとめ

いかがでしょうか。

京都は応仁の乱が終わった後まではただの荒廃した場所でした。

しかし織田信長が政権を握るようになってから京都は綺麗に整えられ、豊臣秀吉の政権と共に政治の中心地になっていったのです。

その後も京都は重要な場所となり、江戸時代においては京の都と言われるようになりました。

スポンサーリンク
azuchimomoyamaレクタングル大

azuchimomoyamaレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする