安土桃山時代と言えば織田信長と豊臣秀吉を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
それならば、豊臣秀吉はどのように活躍したのでしょうか。
織田信長と豊臣秀吉と言えばこの時代の3英傑とも言われていますよね。
徳川家康は安土桃山時代の人間ではなく、江戸時代の人間として捉えられていますが、豊臣秀吉は安土桃山時代に活躍した人物になります。
安土桃山時代における豊臣秀吉は何をしたのでしょうか。
ここでは豊臣秀吉の活躍について解説します。
織田信長政権での台頭
1573年に浅井長政が滅亡し、羽柴秀吉はここで始めて長浜城の城主となり、丹羽長秀、柴田勝家のような人間になりたいと願って羽柴秀吉と名乗るようになりました。
人材発掘を重視し、石田三成等を使うようになったことでも知られていますね。
小竹の投手であった織田信忠のもとで、明智光秀がとともに松永久秀を討伐する戦いで活躍し、その知名度を上げたのです。
1582年に主君であった織田信長が本能寺の変において自害した時、豊臣秀吉はすぐに明智光秀を追い詰め、討伐しました。
豊臣秀吉が関白太政大臣になる
本能寺の変によって織田信長が明智光秀によって倒された後、天下統一事業を引き継いでいくことになります。
柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒し、信長の後継者として知名度をさらに上げました。
しかし、織田信長の息子である信雄と徳川家康に認められず、1584年には小牧長久手の戦いを起こします。
それによって徳川家康との関係が悪化してしまいますが、織田家の人間と戦いの最中に和解をしたことによって徳川家とも引き分けとなったのです。
その後、関白太政大臣に就任しました。
豊臣秀吉による天下統一
豊臣秀吉は一定地域において私的な争いを禁止する旨である惣無事令というものを出しました。
しかし小田原攻めによって一定の領土を確保し、天下統一を達成させたのです。
さらに一般庶民による息を防ぐために刀狩りを行い、太閤検知によって税金というものを明確にしました。
もともとは織田信長に習い、キリスト教に対しても寛容な姿勢を見せていましたが、イエズス会が九州を手中に収めていたことを知り、キリスト教を禁止するようになっていきます。
バテレン追放令を出し、神父たちを日本から追い出して行きました。
まとめ
いかがでしょうか。
豊臣秀吉というのは歴史の授業などでもよく聞く人物ですよね。
天下統一をしただけではなく、その天下統一の状態を維持するために力を尽くした人物でもあります。
安土桃山時代は他の時代に比べると短いですが、中身がたくさん詰まった時代でもあるのです。