安土桃山時代の偉人にはどのような人がいるのでしょうか。
それぞれの歴史を振り返ると、そこには様々な業績を成し遂げた人がいますよね。
それならば、安土桃山時代にはどのような人がいたのでしょうか。
ここでは、安土桃山時代の偉人について解説します。
織田信長
安土桃山時代と言えば、真っ先に織田信長を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
織田信長は3英傑の1人と言われ、安土桃山時代の偉人と言えるでしょう。
織田信長は1534年、尾張の国の戦国大名であった織田信秀の嫡男として生まれました。
1546年、信秀と対立していた戦国大名、斎藤道三と和解したことにより、斎藤道三の娘である濃姫と政略結婚が交わされたのです。
織田信長は徐々に力をつけ、1560年には桶狭間の戦いにより、今川義元を滅ぼしました。
鉄砲が伝来した後はその鉄砲を使った戦略を立てて長篠の戦いに勝利を収めます。
楽市楽座政策を行うなどして経済を活性化させましたが、最後は明智光秀に裏切られ、本能寺の変で命を落としました。
この時代は食事というものが重視されますが、織田信長が徳川家康に食事を振る舞った際、その中心役を担った明智光秀があまりにも豪華な食事を出してしまったため、織田信長が人前で明智光秀を殴ったとされており、これが本能寺の変を決定づけたとも言われています。
明智光秀
織田信長を滅ぼしたとされる明智光秀もこの時代の偉人として知られています。
というよりは、あれほどの力を持った織田信長を滅ぼした人物として知られているとでも言えましょうか。
明智光秀は織田信長を自害させるという役割を果たしました。
もともとは1570年、浅井長政の裏切りによって危機に陥った織田信長を助けるために力を尽くし、防戦に成功したのです。
もともとは幕臣でしたが、織田家の家臣に編入され、織田信長のために尽くしました。
本能寺の変では明智光秀の軍隊は13,000人を誇っており、織田信長の側は100人足らずしかいなかったため、信長自身が寺に火をつけて自害したと言われています。
しかし信長の遺体は発見されませんでした。
ただし、この直後羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、落ち武者が裏で殺害されたとも言われていますし、致命傷を受けて自害したとも言われています。
明智光秀がどのように死んだかという事は明らかにはされていません。
豊臣秀吉
安土桃山時代と言えば、織田信長の次に有名な人物が豊臣秀吉になります。
もともとは羽柴秀吉とされており、織田信長に支えた大名でした。
織田信長が自害した後、山崎の戦いで明智光秀を破り、織田家内部の勢力争いに勝利を収めて小名信長の後継者となったのです。
太政大臣に就任し、豊富となった後は天下統一を無事果たすことに成功し、刀狩りなどを行いました。
また、九州がイエズス会に支配されていると知り、キリスト教を禁止する政策を取り出した人物でもあります。
まとめ
いかがでしょうか。
3英傑の1人である徳川家康は江戸時代の人物として区別されますので、安土桃山時代の偉人には含まれません。
主に織田信長と豊臣秀吉が政権を握った時代として知られているのです。