日本には古来より身分というものがありました。
安土桃山時代というと、どうしても織田信長や豊臣秀吉といった立場の人ばかりを思い浮かべる人もいるかもしれません。
確かに、この時代は武家官位というものがありました。
安土桃山時代の武家官位とは一体どのようなものだったのでしょうか。
ここでは安土桃山時代の武家官位について解説します。
目次
官位の要求
戦国時代には幕府の力が弱体化してしまい、大名は朝廷と話し合って官位を直接授かるということが増えました。
しかし徐々に朝廷が経済的に衰退していくと、大名は朝廷にお金を渡す見返りとして官位を求めるようになったのです。
大名からの献金を重宝した朝廷側も、大名に対して武家以上の格を持つ大名にしか与えないような官位を大名たちに与えるようになっていました。
さらにこの官位は戦の大義名分としても用いられ、例えば三河の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康は三河守を求めたという経緯もあります。
自分で官位を作る
さらにこの時代には、朝廷から任命を受けたわけではないにもかかわらず、自分自身で官位を自称するということも行われました。
例えば、安土桃山時代で最初に政権を握った織田信長は最初に上総介を名乗りましたが、これは自分自身で作り出した身分だと言われています。
また、主君が恩賞として家臣たちに官位を与えることも行われ、官途書出などといった役職が作られました。
豊臣秀吉が織田家に仕えていた時に名乗っていた筑前守や明智光秀が名乗っていた日向守もその一つだと考えられています。
律令官位体制の導入
豊臣秀吉が関白として公家の最高位を授かり、天下統一行ったあとは、豊臣氏宗家を摂関家、庶家を清華家とするなど、家格改革が行われました。
大名に官位を与えて律令官位体制を導入しようという試みがなされたのです。
しかし、公家自体に官位が足りておらず、そこに武家の官位ばかりが急増してしまったために、官位自体の形態が機能不全を起こしてしまいました。
武家の上に立つ公家の官位が足りず、安土桃山時代の武家官位は江戸時代にはさらなる変化を遂げるのです。
まとめ
いかがでしょうか。
身分というものは時代によって変化するものですが、この時代は大名が朝廷から直接官位を授かっていたということ、そして自分たちで官位を作り出していたことが特徴的です。
もちろんだからこそうまくいかない部分もあったのですが、織田信長や豊臣秀吉が力を伸ばしたのは、このように自分たちで官位を作り出すことが可能であったからとも言えるのです。