安土桃山時代と言えば、織田信長や豊臣秀吉が政権を握った時代として知られていますよね。
歴史の授業で、織田信長の長篠の戦い、本能寺の変、豊臣秀吉の天下統一や刀狩りなどを勉強した記憶があるという人も多いのではないでしょうか。
しかし、安土桃山時代はどうしてもこの2人の武将に着目してしまい、なかなか農民の暮らしについて知ることがありませんよね。
ここでは、安土桃山時代における農民の暮らしについて解説します。
決して豊かな暮らしではなかった
安土桃山時代というと、安土城など絢爛豪華なお城などというイメージもあり、どうしても華やか、豪華、豊かというイメージがある人もいるかもしれません。
しかし、それはあくまでも武士の生活であり、農民たちの暮らしは豊かなものではありませんでした。
例えば米を食べる事はなく、粟や黍、稗などの穀物を食べていたと考えられており、米を食べるときには麦や栗を混ぜていたと考えられています。
野菜などが基本となり、家畜の肉を食べていたこともありました。
海沿いならば魚も食べることもあったと考えられます。
しかし、武士になると今の日本食に近い料理に変わるのです。
天下統一の後の農民
豊臣秀吉が天下を統一した後、秀吉は節を全員城下町に住まわせることにしました。
城下町を立派にするという目的もありましたし、身分の低い武士たちが農民と一緒に反乱を起こすということを防ぐためです。
しかし、当然ながらこの取り組みによって武士と農民の区別がはっきりとついてしまうことになりました。
また、安土桃山時代は安土城や伏見城以外にも豪華なお城がたくさん建てられました。
現存する犬山城は国宝ですし、姫路城は世界遺産としても知られていますよね。
お城の文化が栄えた一方で、身分の違いを明確にされてしまった農民たちの暮らしは貧しかったと考えられているのです。
南蛮文化の導入
安土桃山時代は文化的に栄えた時代でもありました。
中国を仲介せずヨーロッパと直接交易できるようになり、特にポルトガルから多くのものが伝来してきたのです。
その中でも長篠の戦いで使われた鉄砲や、フランシスコザビエルによってもたらされた鉄砲は有名ですね。
農民たちの中にも、外来語が伝わるようになったり、活版印刷の技術、服装、西洋画など、人々を魅了するようなものがたくさん伝わってきました。
安土桃山時代の前の室町時代は、茶の湯や能楽が広まるようになり、安土桃山時代にはそれらが一般の人にも楽しまれるようになったのです。
まとめ
いかがでしょうか。
農民の暮らしは武士の暮らしとは違い、節ほど華やかなものではありませんでした。
しかし、南蛮文化が伝わったことによって人々の生活はそれなりに賑やかなものとなり、特に天下太平の後は平和な暮らしをすることができたと考えられています。