安土桃山時代に流行った遊びとはどのようなものだったのか

どの時代であっても、人々はそれなりに楽しみを見つけながら生活をしますよね。

それならば、安土桃山時代はどのような遊びがあったのでしょうか。

遊びというのはやはり人々の生活を豊かにし、楽しませてくれる大切なものです。

ここでは安土桃山時代の人々の遊びは何だったのか人々の楽しみは一体どのようなものだったのか、ということについて解説します。

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安土桃山時代以前には、仏教が栄え、神道や仏教など宗教的な考え方が中心にありました。

しかし、安土桃山時代はどちらかというと、神や仏ではなく今生きている人間の方が大切であるという考え方が中心だったのです。

特に豊臣秀吉が天下を統一した後は、見られていた世の中がまとまったわけですから、人々は平和を手にし、比較的余裕のあるのびのびとした生活を楽しむことができました。

それによって様々な芸能が普及したのです。

戦をしていれば余裕がありませんが、そのようなことがなければ趣味などに打ち込むこともできますよね。

そのため、能楽や茶道、浄瑠璃や歌舞伎などが普及したのです。

能楽

出雲阿国という人物によって能楽が大成されました。

織田信長も豊臣秀吉も、京都で様々な能楽を見物し、豊臣秀吉に至っては自ら演じたこともあると考えられています。

この豊臣秀吉に倣い、秀吉に仕える大名たちも学ぼうとしましたが、この頃は能楽は儀式的な意味合いが強くもたれていたのです。

能楽に限らず、謡などの芸能を理解する能楽ことわ下から成り上がってきた大名たちにとって大切な教養となりました。

また、これは一般の庶民の間でも受け入れられ、人々はを楽しんだとされています。

浄瑠璃や歌舞伎はより庶民のものとして愛されました。

茶の湯

武家や公家の間では、千利休等の茶の湯の名人が現れました。

お茶を飲むのが上手、お茶の味わいを楽しむことができる、などということではなく、静かで慎ましいということが理解できていなければお茶の名人とは言えなかった時代です。

お茶の名人の中でも優れていた人物は千利休でした。

千利休は秀吉の気持ちをよく理解した茶の湯を行い、一般の武士たちにも好かれていました。

しかし、千利休自身はぜいたくなお茶を好むことができず、だからこそ織田信長や豊臣秀吉に好かれたとも考えられています。

千利休は彼らのお茶の先生になり、大名たちにもお茶を教えていました。

お茶を楽しむということも、この時代の人々にとっては遊びの1つだったのです。

千利休は最終的には豊臣秀吉と争って自殺をしました。

着物

能楽などが盛んになり、着物も非常に華やかなものとなりました。

南蛮貿易によって中国の生糸や織物が日本に入り込み、中国風の織物や京都の西陣織などが着物に取り込まれるようになったのです。

また、ポルトガル人によって伝えられたビロードやサラサ、モールなども織られるようになり、これらが着物として愛されるようになったのです。

また、同時期に絵画が逆になったことにより、着物にも様々な模様を染め出した小袖流行りました。

絵画としては水墨画や南蛮屏風何度か普及し、狩野永徳などが有名になったのです。

そしてこれらも人々の遊びとなって親しまれました。

まとめ

いかがでしょうか。

安土桃山時代は武士たちが城下町に住まなければいけなかったことや刀狩りの結果などにより、人々の身分というものが明確になった時代でした。

ですから、身分が違えば遊びというものも変わってきます。

しかし、いずれにしてもこの時代は経済的にも発達し、人々は余裕を持って遊びに興じることができたのです。

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