大阪というのは、歴史上重要な役割をになった場所でもあります。
江戸時代には天下の台所という名前もつけられ、人々に親しまれましたよね。
安土桃山時代には大阪に大阪城が建てられました。
それによって大阪は政治の中心地にもなっていくのです。
それならば、大阪はどのように栄えていたのでしょうか。
ここでは安土桃山時代の大阪について解説します。
大阪城の築城
1580年、浄土真宗本願寺11代目の宗主、顕如が大阪本願寺を織田信長に明け渡しました。
織田信長は大阪を中心に政治をしようとしていたのです。
しかし、そんな織田信長が本能寺の変にて明智光秀に敗れ、命を落とした後は豊臣秀吉が大阪は拠点にし、天下統一をしようとしたのです。
まず1583年、豊臣秀吉は初代大阪城を建築しました。
豊臣秀吉といえば桃山丘陵の伏見城が居城というイメージを持っている人もいるでしょうが、最初は大阪城だったのです。
それによって城下町大阪が誕生しました。
城下町大阪の発展
豊臣秀吉は東横堀川、西横堀川、阿波堀川などを使い、開運の拠点を大阪に築き上げました。
開運や水運が発展したことにより、物流が進歩しました。
これによって経済が大幅に発展していくことになるのです。
また、今の街並みや屋敷の区割りの基本はこの頃からできていたと考えられています。
商人を移住させ、産業の中心を大阪に移行しました。
海外交易にも力を入れたことにより、東アジアや東南アジアにも商人たちが出かけていき、世界でも有数の大都市として成長したのです。
安土桃山時代の名前について
安土桃山時代の安土とは、織田信長の居城である安土城から来ています。
そして桃山というのは豊臣秀吉の居城である伏見城があった桃山丘陵からきています。
しかし、伏見城が建った3年後には豊臣秀吉が命を落としたこともあり、この安土桃山時代という名前に異論を唱える人も少なくありません。
桃山というよりも、豊臣秀吉は大阪で力をつけたということもあり、安土大阪時代の方が良いのではないのかという意見もあります。
さらに、安土城も建築から2年後になくなったため、安土という名称に反発を感じる人もいます。
そのため、織田信長と豊臣秀吉の頭文字を取り、織豊時代という人もいます。
まとめ
いかがでしょうか。
大阪というのは城下町として発展し、その後物流の中心として栄えることになりました。
江戸時代においては天下の台所としてさらなる繁栄をしていくことになります。