安土桃山時代は、織田信長や豊臣秀吉で知られている時代です。
この2人が政権を握ったことにより、天下が統一され、比較的平和な世の中が訪れましたよね。
しかし、天下統一といっても豊臣秀吉の天下統一に北海道は含まれていませんでした。
このように、今の日本とは若干違ったため、日本といっても日本に含まれない地域もあるのです。
それならば九州は一体どうだったのでしょうか。
ここでは、安土桃山時代における吸収について解説します。
九州平定
1586年、まだ豊富生斜め前の羽柴秀吉は九州の大名たちと戦い、九州を手に入れました。
ただし、九州平定といっても豊臣政権が九州を侵略したという見解の方が強いため、九州攻め、九州征伐と呼ばれることもあります。
また、織田信長と豊臣秀吉が天下を統一したという流れにおいて九州平定とする見方もあります。
九州役と言われる場合もあります。
役とは人民を交易に用いることという意味がありますから、戦いという意味でこの呼び方が生まれたのです。
バテレン追放令
九州平定が終わった後、豊臣秀吉は1587年7月24日にバテレン追放令を出しました。
これは福岡県福岡市において、キリスト教を布教するためにやってきた宣教師たちの活動と、南蛮貿易に関する禁制文書のことを指します。
実はフランシスコザビエルなどは日本お皿なかったとも言われていますが、豊臣秀吉は最初、九州でバテレン追放令を出すことにより、キリスト教を統制しようとしたのです。
今現在、この原本は長崎県平戸の資料館に残されています。
ちなみに、豊臣秀吉はもともと織田信長の政策を受け継いでいましたから、キリスト教のことも容認していました。
しかし、九州を手に入れた後は長崎がイエズス会領になっているということを知り、危機感を感じたと考えられています。
キリスト教をコントロールしようとした理由
豊臣秀吉がキリスト教を禁止しようとした背景には、キリスト教が拡大した人々に影響与え、一揆のような反乱が起こることを懸念したからだと言われています。
また、もともと日本は神道と仏教の国ですから、ここにキリスト教が入り込んでくることによって神道や仏教がないがしろにされてしまうということも懸念していました。
そして長崎のように、日本人がポルトガル人によって支配されてしまったり、ポルトガル人が日本人を奴隷として扱わないようにするためでもあります。
さらに、秀吉の下に連れてこられた女性たちがクリスチャンであったため、秀吉が嫌がったとも言われています。
まとめ
いかがでしょうか。
まだ九州というものは日本の領土ではありませんでしたが、豊臣秀吉によって九州が日本の領土として加わるようになったのです。
そしてポルトガル人が九州に広がっていたことにより、豊臣秀吉が焦りを感じ、九州が日本に組み込まれていたと言えるでしょう。