安土桃山時代とは、織田信長と豊臣秀吉が政権を握った時代として知られています。
なぜ安土桃山時代と呼ぶのでしょうか。
室町幕府だから室町時代、江戸幕府だから江戸時代、などといった覚え方をする人も多い中で、なぜ安土桃山時代という長い名前が出来上がったのでしょうか。
ここでは、安土桃山時代の名前の由来について紹介します。
「安土」の名前の由来
安土桃山時代の安土という部分は織田信長の居城であった安土城から来ています。
現在の滋賀県近江八幡市安土町である安土山に建築されたお城であり、今は琵琶湖国定公園第一種特別地域として人々に親しまれています。
安土城は、地下1階地上6階建てであり、天主の高さは32メートルほどあったとされています。
それまでの時代に作られたお城よりも豪華なものであり、さらに石垣の上に天守閣を建築したという事でも今までのお城とは大きな違いがありました。
中央に礎石がなく、織田信長が生活するための居住性が充実しており、さらに城郭中枢部にはお寺があったとされています。
だからこそ宗教色も強かったのです。
なお、観音寺山と長命寺山から石引を行ったとされていますが、約10メートル、約110本あったとされる蛇石はいまだに発見されていません。
「桃山」の名前の由来
安土という部分が織田信長の居城である安土城から来ているならば、桃山というのは豊臣秀吉の桃山城… というわけではありません。
豊臣秀吉の居城は伏見城であり、その伏見城は京都市伏見区の中央、宇治川の北部に位置する標高約100メートルの丘陵、桃山丘陵という場所に建築されたことが名前の由来となりました。
明治初めにはこの土地の大半が皇室の後領地となり、大正初めには伏見城の本丸跡に明治天皇のお墓が建築されました。
このような用途により、伏見城がどのようなものであったかという事はなかなか解明されていないという現実もあります。
名前の由来に対する批判
安土桃山城というのは織田信長と豊臣秀吉のお城から来ている名前ですが、その反面、安土城は完成からわずか3年で消失しました。
もちろん、消失したのは天守閣や本丸などのみであったため、お城としては十分に機能できていたと考えられています。
しかし、重要な天守閣が建築から3年でなくなってしまったこと、そして伏見城自体は完成から2年後、豊臣秀吉が命を落としたことにより、この2つのお城を安土桃山時代の名前の由来とするのはおかしいのではないのかという批判もあります。
そのため、織田信長と豊臣秀吉の名前を合わせ、織豊時代と呼ばれることもあります。
まとめ
いかがでしょうか。
特に小学校などで日本史を勉強する時、奈良時代や平安時代、鎌倉時代などという四文字熟語の中で安土桃山時代だけは名前が長いと感じたことがある人もいたかもしれませんね。
その背景にはこのような由来があるのです。